2016年2月18日 礼拝メッセージ
砕かれた、悔いる心
詩篇51:10~17
10、神よ。私にきよい心を造り、
ゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。
11、私をあなたの御前から、投げ捨てず、
あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
12、あなたは救いの喜びを、私に返し、
喜んで仕える霊が、私をささげますように。
13、私は、そむく者たちに、
あなたの道を教えましょう。
そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。
14、神よ。私の救いの神よ。
血の罪から私を救い出してください。
そうすれば、私の舌は、
あなたの義を、高らかに歌うでしょう。
15、主よ。私のくちびるを開いてください。
そうすれば、私の口は、
あなたの誉れを告げるでしょう。
16、たとい私がささげても、
まことに、あなたはいけにえを喜ばれません。
全焼のいけにえを、望まれません。
17、神へのいけにえは、砕かれたたましい。
砕かれた、悔いた心。
神よ。あなたは、それをさげすまれません。
私たちは一つの主、イエス・キリスト様の名が全ての御名にまさっている大いなる名であることを知っています。
この名に勝る名はありません。全ての者はこの名にひざをかがめます。
みなさんは、イエス・キリストの名を頂いた特別な特権を与えられた者です。
強いられて主を礼拝するのではなく、喜んでひざをかがめ、自ら選び、心低くして、主の前に出て、心を開いていることを感謝しています。
霊において距離は関係ありません。
天はどのくらい高く、遠いのでしょうか。
飛行機で高く飛んで、天が近くになるのでしょうか。
先日、牧師は夢を見ました。
イエス様が私の手を握って、天に連れて行ってくださる夢でした。
大きな会堂で、壁を突き抜けてイエス様が来られました。私の手を握って、壁を突き抜けてふわーと天に向かいました。
地上では、私はもぬけの殻になっていて、京子先生と娘が、あなた!あなた!お父さん!お父さん!とからだを揺すぶっていました。
青い空を気持ち良く、本当に気持ち良く、イエス様の中で飛んで行きました。
夢はそこまででした。
夢はそこで終わっているのですが、すごい喜びを感じました。
夢がさめて、天国まで登って行ってその光景を見たかったな~思いました。
Ⅱコリント12:1 で、パウロが第三の天に引き上げられた。と書かれてあります。
12:1、後半
1、神はご存じです。― 第三の天にまで引き上げられました。と記されています。
さて、イエス・キリスト様は完全な人であり、完全な神です。
イエス・キリスト様は再びこの地上に来られます。
現在は再臨の主にお会い出来る時代、終わりの時代です。イエス様がご再臨される時は近いのです。
霊的時間は「まもなく」です。「霊的時間は速くなっています。」
「時は短い」です。
ですから、牧師に与えられた使命は、その時の速さをみなさんに伝えることです。霊の世界を読み取ることが重要です。
バプテスマのヨハネの言葉をもう一度良く聞く時です。
マタイ3:2~3
2、悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」
3、主の道を用意し、主の通られる道をまっすぐにせよ。
神様は、あなたがイエス・キリスト様の似姿に変わるように様々な方法を持って臨んでおられます。
みなさんが歩んで来た人生と、クリスチャンになった現在と比べると、世界が変わったと思います。考え方、生き方。あらゆる物事の理解の仕方です。
次は、クリスチャンになったのですから、自らを証し人として歩み続けることが使命になりました。証し人は、喜びと感謝ですから大変ではありません。
モーセは、主と出会った時に、『あなたの名前は何ですか』と質問しました。
神さまは『私は有る』『私は有りて有る者』と答えました。
『聖書的に有る』とは『天地万物の最初から存在していた』と云う意味です。
ヨハネ1:1
初めに「ことば」があった。「ことば」は神とともにあった。「ことば」は神であった。
「言葉」ではなく「ことば」です。
何故、「ことば」が神であるのでしょうか。
創世記1:1~3
1、初めに、神は天と地を創造した。
2、地は形なく、何もなかった。闇が大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。
3、その時、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光が出来た。
創造主は「ことば」です。
「ことば」は「ロゴス」です。
そして、『ロゴス』はイエス・キリスト様です。
さて、『人間は、失敗する存在である』と『定義』することが出来ます。私たちは沢山の失敗をしてきました。
そうではありませんか。
ヤコブ3:2
2、私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗しない人がいたら、その人は、体全体も立派に制御できる完全な人です。
この御言葉は「完全な人はいない」と逆説的に言っているのです。
この地上では、イエス様以外は失敗する者です。
ダビデは神さまの御声を聞く人物でしたが、大きな失敗をしました。
ダビデは、イスラエルの全軍を戦いに出して、一人エルサレムに留まっていました。ダビデが屋上を歩いていると、一人の女性が体を洗っている姿を見ました。その女性の名前は、バテ・シェバでありました。バテ・シェバの夫は、戦いの将で、ウリヤの妻でありました。イスラエル軍が戦いに勝利し、凱旋した時、バテ・シャバはすでに妊娠していました。ダビデはウリヤを激戦区の真正面に出して、ウリヤが戦死することを画策したのです。
Ⅱサムエル11:1~27
1、年が改まり、王たちが出陣するころ、ダビデはヨアブと自分の家来たちとイスラエルの全軍とを戦いに出した。彼らはアモン人を滅ぼし、ラバを包囲した。しかし、ダビデはエルサレムに留まっていた。
2、ある夕暮れ時、ダビデは床から起き上がり、王宮の屋上を歩いていると、一人の女が、からだを洗っているのが見えた。その女は非常に美しかった。
3、ダビデは人をやって、その女について調べたところ、「あれはヘテ人ウリヤの妻で、バテ・シェバではありませんか。」との報告を受けた。
4、ダビデは使いの者をやってこの女を召し入れた。女が彼のところに来たので、彼はその女と寝た。 ― その女は月のものの汚れをきよめていた。 ― それから女は自分の家に帰った。
5、女は身ごもったので、ダビデに人をやって、告げて言った。「私は身ごもりました。」
6、ダビデはヨアブところに人をやって、「ヘテ人ウリヤを私のところに送れ。」と言わせた。それでヨアブはウリヤをダビデのところに送った。
7、ウリヤが彼のところにはいって来ると、ダビデは、ヨアブは無事でいるか。兵士たちも変わりないか、戦いも上手くいっているか。と尋ねた。
8、それからダビデはウリヤに言った。「家に帰ってあなたの足を洗いなさい。」ウリヤが王宮から出て行くと、王から贈り物が彼のあとに続いた。
9、しかし、ウリヤは、王宮の門のあたりで、自分の主君の家来たちとみなと一緒に眠り、自分の家に帰らなかった。
10、ダビデは、ウリヤが自分の家に帰らなかったと、という知らせを聞いて、ウリヤに言った。「あなたは遠征してきたのではないか。何故、自分の家に帰らなかったのか。」
11、ウリヤは、ダビデに言った。「神の箱も、イスラエルも、ユダも仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。そうなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることが出来ましょうか。あなたの前に、あなたのたましいの前に誓います。私は決してそのようなことをいたしません。」
12、ダビデはウリヤに言った。「では、今日もここに留まるが良い。明日になったらあなたを送りだそう。」それでウリヤはその日と翌日エルサレムにとどまった。
13、ダビデは彼を招いて、自分の前で食べたり飲んだりさせ、彼を酔わせた。夕方、ウリヤは出て行って、自分の主君たちと一緒に自分の寝床で寝た。
14、朝になって、ダビデはヨアブに手紙を書き、ウリヤに持たせた。
15、その手紙にはこう書かれてあった。「ウリヤを激戦の真正面に出し、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれるようにせよ。
16、ヨアブは町を見張っていたので、その町の力ある者たちが知っていた場所ウリヤを配置した。
19、その町の者が出てきてヨアブと戦った時、民のうちダビデの家来たちが倒れ、ヘテ人ウリヤも戦死した。
26、ウリヤの妻は、夫ウリヤが死んだことを聞いて、夫のために痛み悲しんだ。
27、喪が明けると、ダビデは人をやり、彼女を自分の家に迎え入れた。彼女は彼の妻となり男の子を産んだ。しかし、ダビデの行ったことは主の御心をそこなった。
アーメン
ダビデの一回の失敗は、バテ・シェバだけではなく、ウリヤを戦死させるという二重の罪を犯しました。バテ・シェバは夫ウリヤが戦死したことに悲しみましたが、ダビデはバテ・シェバを妻としました。
歴史的に見るならば、ダビデの跡継ぎは、偉大なソロモンでした。ソロモンの母親はバテ・シェバでした。不思議ですね。
人間は後で後悔するものですが、「後悔」と「悔い改め」は全く違います。
詩篇51:1~4、10~13
1、神よ。み恵みによって、私に情けをかけ、
あなたの豊かなあわれみによって、
私のそむきの罪をぬぐい去ってください。
2、どうか私の咎を、私から全く洗い去り、
私の罪から、私をきよめてください。
3、まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。
私の罪は、いつも私の目の前にあります。
4、私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、
あなたの御目に悪であることを行いなした。
それゆえ、
あなたが私を宣告される時、あなたは正しく、
裁かれる時、あなたは清くあられます。
ここで「神の目の位置」を見ることが出来ます。
神様はダビデの罪を見たのではなく、どういう人かを見られました。
ダビデの悔い改めは深いものでした。簡単の許されることではありませんが、主は悔い改めに目を注ぎました。
イエス様のように考え、行動しているかどうかを見られます。
神様は愛する神です。
私たちの心がどういう状態か。
心の領域を見ます。
10、神よ。私にきよい心を造り、
揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。
11、私はあなたの御前から、投げ捨てず、
あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
12、あなたの救いの喜びを私に返し、
喜んで仕える霊が、私を支えますように。
13、私は、そむく者たちに、
あなたの道を教えましょう。
そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。
ダビデは心から悔い改めて、主に赦しを乞いました。
この時、ダビデはへりくだり、謙遜な姿勢が分かります。
ダビデのような罪を犯すことがなくても、私たちには罪が内在されています。
しかし、イエス様が十字架上で流された血潮によって、『全ては完了しました。』
イエス様の名前に勝る名はありません。
十字架の血潮で赦されないものは一切ありません。
イエス・キリスト様は、完全な人であり、完全な神です。
先週、中国のリバイバルをDVDで見ました。
ここから中国のリバイバルを見ていきます。
中国政府は、イエス様を信じているというだけで牢獄へぶちこみます。現在も途絶えることなく、クリスチャンを捕らえることに必死になっています。現在の習近平国家主席は、キリスト教会弾圧に積極的です。今まで認めていた教会が大きく成長し教会建設を始めると、大きな十字架を掲げた時に、違法建築という名目で教会を破壊しています。
中国のクリスチャンは現在1億人と言われています。「言われている」ということは、中国政府に従う教会は認めますが、それ以外は認めません。その認めされない教会を「家の教会」と言います。
中国政府は、クリスチャンの台頭を恐れています。
クリスチャンが中国を支配すると恐れているのです。
実際に共産党員よりも、クリスチャンの人数が多いからです。
すごい勢いでクリスチャンが増えています。
やがて「中国が民主主義国家になって行くならば」「クリスチャン大国」になるでしょう。
この中国にクリスチャンの特徴は『迫害している政府を批判しません。彼らはいまなにをしているのか分からないのです。彼らを赦してください。』
この信仰が連ねられているのです。
この信仰は重要な内容を私たちに問いかけれいます。『赦す』ことが根底に流れていることです。ですかた、忍耐出来ました。これからも、毎日、毎日、どこかで逮捕され、刑務所に入れられていますが、彼らの信仰はそうなのです。
御言葉に従っています。
現在の中国は、聖書が足りません。まったく足りません。私たちの教会は、中国の聖徒たちに聖書が印刷されて、届けられて行くために献金をしていますよ。
長い、長い忍耐の時代がありました。
クリスチャンは、初代教会のように、どのような迫害に会っても屈することはありません。イエス様を主と信じる者は、迫害に耐えることが出来ることを証明したのです。
クリスチャンの指導者が次々と逮捕されて、20年、30年と弾圧されていました。強制労働を強制されました。王明道、ジョン・宋、ウッチマン・二―、その後の時代を担ったのが、サムエル・ラム牧師、猿牧師ら、多数の指導者が起こされました。昨日、サムエル・ラム師の本「夜深く日は近く」を改めて読みました。感動と涙が私の心をいっぱいにしました。サムエル・ラム牧師が他の刑務所へ移される時、そこで、自分の教会員とすれ違う瞬間がありました。声を交わすことは許されませんでしたので、「サムエル牧師は、二人に向かって天を見上げるしぐさをし、笑顔で、主に委ねて行こうと云うサインを送りました。」有名なエピソードです。励ましはどこでも良いことです。
こうして、教会は公に姿を消したのです。世界中のクリスチャンは中国の教会は終焉したのかと、思い、心を痛めました。しかし、クリスチャンは洞窟で、墓場で、小舟の中で、主を礼拝していたのです。
毛沢東が権力を握り、文化大革命が起こり、若い大学生が紅衛兵として、クリスチャンの大迫害が起こり。教会は次々と閉鎖され、全国規模でクリスチャンの家を捜索して、聖書、賛美科などを焼いて、クリスチャンはバカ帽と云うのですか、長い帽子をかぶせられ、町中を歩かされ、つばきをかけられ牢獄へぶち込まれていきました。
毛沢東が死んだことが境となって、人民は彼らの後ろ盾が無くなったことを境にして、状況は変わりました。毛沢東を神のように崇めていましたから、人民は無力感に襲われました。
その中でクリスチャンは「家の教会」として成長していたのです。この事実が世界に伝えられました。「地下教会」が、無数に造られて礼拝を守っていたのです。すごいですね。秘密の場所ですから、簡単には見つかりません。しかし、スパイが送りこまれているのでしょうね、公安警察は捜し出すのです。「家の教会」を襲って逮捕、牢獄行きですが、彼らは牢獄でも伝道しています。ですから、公安警察は手をやいているのです。『家の教会』は力強く成長しています。やられても、やられても、クリスチャンはまいりません。イエス様がおいでですから、彼らは恐れません。
使徒7:54~60
ステパノは初代教会の最初の殉教者です。そのことが聖書に書かれています。
ステパノは人々にイスラエルの歴史を紐解きますが、彼らは怒り、町の門から出して、石打をして殺しました。
54、人々はこれを聞いて、はらわたが煮え返る思いで、ステパノに向かって歯ぎしりした。
55、しかし、聖霊に満たされていたステパノは、天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスを見て、
56、こう言った。「見なさい。天が開けて人の子が神の右に立っておられるのが見えます。」
57、人々は大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到した。
58、そして彼を町の外に追い出して、石で撃ち殺した。証人たちは、自分たちの着物をサウロと云う青年の足もとに置いた。
59、こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで、こう言った。「主イエスよ。私の霊をお受けください。」
60、そして、ひざまずいて、大声でこう叫んだ。「主よ。この罪を彼らに負わせないでください。」と言って、眠りについた。
サウロとありますね。パウロのことです。
牧師は50歳前半、献金を預かって中国を何回も行きました。主な目的は北朝鮮の脱北者を助ける働きのためでした。北朝鮮からの脱北者は中国の北部に住む朝鮮族に逃げ込みます。言葉が通じますから、逃げてきても話しが出来ます。
女性は結婚して子供を産みますが子供は捨てられるのです。最終的には、韓国へ逃げ込むのです。こうした子供たちを集めて孤児院を造り、預かる働き手がクリスチャンです。捕まれば刑務所です。それでも、恐れることなく、喜んで子供たちを守っています。
『家の教会』を訪ねました。「家の教会」は見た目ではまったく分かりません。写真を後でお見せします。神学校も建て上げています。そのために献金を持って行きました。神学校での講義をしました。
両親が逮捕されている子供たちを、韓国の宣教師ご夫妻が働きを持っておられます。お会いして実際にその場所に行くのに、あっちを周り、こっちを周りと公安警察の見張りをくぐるようにして子供たちがいるアパートに着きました。牧師もメッセージをしましたが、彼らの聞く姿勢、態度は日本人が見習うべきだと思いました。両親が刑務所にいるのです。その真剣な顔つきは忘れることが出来ません。
一人の脱北者ご夫妻がおられました。貧しい生活をされていました。私たちは牧師先生の案内で会いに行きました。床は土で、一畳半くらいの休む場所を付くっていました。純朴なご夫妻でした。仕事はかごを担いでゴミ拾いをされていました。献金を捧げさせて頂きました。次の年に再びお会いしました。喜んで、喜んで、先生見てください!見てください!リヤカーを献金のお金で買いました。今は沢山のごみを入れることが出来て、収入も前よりも出来るようになりました。私たち一行は大いに励ましを頂きました。
素晴らしいでしょう。
今日の御言葉です。
10、神よ。私に清い心を造り、
揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。
11、私を御前から、投げ捨てず、
あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
12、あなたの救いの喜びを、私に返し
喜んで仕える霊が、私を支えますように。
13、私は、そむく者たちに、
あなたの道を教えましょう。
そうすれば、罪人は、あなたのもとに帰りましょう。
全てにおいて、「聖霊」「霊」とあります。
生きることは自分の力ではなく、聖霊様によって生きることをダビデは知っていました。
14~17
14、神よ、私の救いの神よ。
血の罪から私を救い出してください。
そうすれば、私の舌は、
あなたの義を、高らかに歌うでしょう。
15、主よ。私の口は、
あなたの誉れを告げるでしょう。
16、たとい私が捧げても、
まことに、あなたはいけにえを喜びません。全焼のいけにえを望まれません。
17、神へのいけにえは、砕かれたたましい、
砕かれた、悔いた心。
神よ。あなたは、それをさげすみません。
この御言葉でダビデは、全焼のいけにえを神様は望まないと言いました。
イスラエルは常に、罪を贖うためには、羊や牛を捧げていました。
しかし、ダビデは、神様の前に差し出すのは、私自身ですよ。言うのです。
神へのいけにえは、砕かれたたましい。
自分自身とは、砕かれた、悔いた心。
『砕かれるとは』自らを見つめ、自らの中にある「罪を告白し」「悔い改めて生きる者がいけにえ」として、イエス様を見上げる歩みです。
マタイ9:13
13、『私はあわれみを好むが、いけにえを好まない。とはどういう意味か、行って学んで来なさい。私は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。
とイエス様は語られます。
中国のクリスチャンは、中国の国のために、涙を流し祈っています。只主を求めるがゆえの理由で逮捕されても、国が救われるために祈っています。迫害されても、批判しません。「彼らは何をしているのか分からないのです。彼らを赦してください。」と祈るのです。
私たちも、言われのない中傷を受ける時があるでしょう。
いやな思いを経験することもあるでしょう。
私たちの教会は「砕かれた、悔いた心」を持ち続ける者が集められているのです。
批判するのは簡単です。しかし、批判した口は、人を立て上げることは出来ません。くちびるが腐るだけです。
ペテロは言います。Ⅰペテロ2:4
4、主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれたた、
尊い、生ける石です。
5、あなたがたも生ける石として、霊の家を築き上げなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえを捧げなさい。
祈ります。
愛する父なる神様、あなたの御前に立っています。あなたを礼拝するためにここにいます。今日の朝起きることが出来たことを感謝します。命が今日も加えられたことを感謝します。賛美をささげられたことを感謝します。御言葉を読むことが出来たことを感謝します。祈ることが出来たことを感謝します。みなと会えたことを感謝します。私の内側で働いておられる聖霊様を感謝します。
この時に、イエス様の十字架を見上げることが出来たことを感謝します。
どうぞ、これからの一日を主の前で謙遜でありますように。神様の愛を現すことが出来ますように。誠実な歩みが出来ますように。これからの一週間をお守りください。毎日が主の日であることを強く思っている一週間でありますように。この祈りを主イエス・キリストの御名によって祝福して祈ります。
アーメン